主体性や積極性のどこまでが正常で、どこからが躁なのだろう。
一人で出掛けたいという発言は、能動性の発現なのか、それとも躁の発現なのか。
農業に携わりたいという思いは、能動性の発現なのか、それとも躁の発現なのか。
今の私に、その答えは出せない。
私はその真っ只中にいる。
何をやっても、それは躁の発現だと見られているのではないか、という思いが付きまとう。
それなら私は、もはや何の自発的意思も示せないのだろうか。
受動的に言われるがまま、生きていくしかないのだろうか。
きっと答えは、例によって例のごとく、両極のどちらでもなくて「適度」に能動的であること、という今更な答えなのだろう。
それは結局、答えにはならない。
「適度」とはどの程度か、ということこそ、まさに私の問いなのだから。
こんなことを考えていること時点で、社会復帰などまだ望むべくもないのかも知れない。
こんな悩み方をして将来のことが決められないでいるようでは、社会人ではいられないだろう。
悩んでいること自体が異常性の証拠、それには一理あると思う。
もっとも、だったら私は悩み続けるべきでないのか、もし悩むべきで無いならどうすべきなのか、という新しい問いが生まれるだけなのだが。
やはり入院しか無いのだろうか。