2009年12月15日火曜日

能動性は即ち躁?

主体性や積極性のどこまでが正常で、どこからが躁なのだろう。

一人で出掛けたいという発言は、能動性の発現なのか、それとも躁の発現なのか。

農業に携わりたいという思いは、能動性の発現なのか、それとも躁の発現なのか。

今の私に、その答えは出せない。

私はその真っ只中にいる。

何をやっても、それは躁の発現だと見られているのではないか、という思いが付きまとう。

それなら私は、もはや何の自発的意思も示せないのだろうか。

受動的に言われるがまま、生きていくしかないのだろうか。

きっと答えは、例によって例のごとく、両極のどちらでもなくて「適度」に能動的であること、という今更な答えなのだろう。

それは結局、答えにはならない。

「適度」とはどの程度か、ということこそ、まさに私の問いなのだから。

こんなことを考えていること時点で、社会復帰などまだ望むべくもないのかも知れない。

こんな悩み方をして将来のことが決められないでいるようでは、社会人ではいられないだろう。

悩んでいること自体が異常性の証拠、それには一理あると思う。

もっとも、だったら私は悩み続けるべきでないのか、もし悩むべきで無いならどうすべきなのか、という新しい問いが生まれるだけなのだが。

やはり入院しか無いのだろうか。

2009年12月10日木曜日

働くって、何だろう。

おそらく、考えること、あるいは考える時間的余裕があること自体が贅沢だと糾弾されるような、そんな話題。

働くとはどういうことか。

多くの人が、その答えを持たないまま、あるいは「どうせ答えの出ない悩み事だから」と答えを持つ必要性を感じないまま、日々を過ごしていると思う。

実際、考えている暇も無く働かなければならない、という人が大半だろう。

先月くらいまでの自分も、こんなことを真面目に考えたことは無かった。

「答えの出ない悩み」だとは思っていないが、社会人になるまでは実感を持って考えることはできなかったし、なってからはなってからで考えている暇など皆無だったからだ。

もし私がこんな問いを誰かに投げかけても「そんなこと考えていられるなんて贅沢だねえ」と返されてしまうであろうことはよく理解できる。

私だって、働いていた頃に誰かにそう尋ねられたら、同じように答えたに違いないのだから。

しかし、今の私は答えを出さなければならない。

どうも私の主治医は、私が惰性で復職することができるようなタイプではないと踏んでいるようだし、私自身もその通りだと思う。

復職すると、私はどういう環境に身を置くことになるのか。

それは自分にどんな負荷をもたらし、どんな影響を与えるのか。

復職しないとするなら、これからどのように生きていきたいか。

これらの問いに答えることは、突き詰めると「働くとはどういうことか」という問いに答えることに近づいていくように思う。

期限は、1週間だ。