川越街道を運転していた本日、対向車線をウィリーで走っていく兄ちゃんを見かけた。
ここは川越街道である。
湘南でもモトクロス会場でもX-Gameでも無い。
でもウィリー。
きっと湘南海岸でかっこよく決めるために練習しているのだろう。
そうでも思わないと状態と場所のギャップに笑いがこみ上げてきてしまう。
がんばれ兄ちゃん。
1日の最後にPCに向かうと眠れなくなってしまう私が、起きてから前日の記録を残す場所。
川越街道を運転していた本日、対向車線をウィリーで走っていく兄ちゃんを見かけた。
ここは川越街道である。
湘南でもモトクロス会場でもX-Gameでも無い。
でもウィリー。
きっと湘南海岸でかっこよく決めるために練習しているのだろう。
そうでも思わないと状態と場所のギャップに笑いがこみ上げてきてしまう。
がんばれ兄ちゃん。
人恋しい。
以前から時々突然こうなることは多く、その度に周囲を巻き込んできてしまったが、今回はかなり症状が重い。
これまで私は、人恋しさは私の弱さの象徴だと思ってきた。
一人でも生きていけるヒトを目指している私にとって、どうしても乗り越えなければならない壁だと思ってきた。
どうしてヒトにはこんな気持ちがあるのだろう。
悩み疲れた今、私は一つの境地に達しようとしている。
きっと、人恋しさは弱さの象徴では無い。
乗り越えるべき壁では無い。
確かに、一人でも生きていけることはとても大事なことだ。
しかし、ヒトはサルだった頃から共同体を組んでいたのだし、未熟な状態で母親から生まれ、周囲のヒトに育ててもらう存在だ。
天涯孤独だった、純粋に一人で生きたことのあるヒトなどいないはずである。
だから人恋しさは、持っていて当然の気持ちなのかも知れない。
ヒトを求める気持ちこそが、ヒトである証なのではないだろうか。
実は、東京の一日乗車券はメトロよりも都営の方が得である。
なぜなら、バスを利用できるからだ。
本日はそれを駆使して友達に会ったり図書館を巡ったり。
歩数は20'000歩を突破した。
そして今は、東京の友達の家にお邪魔している。
続いてこれから船舶免許の学科教習だ。
アルトサックスを吹く友達を誘って、母校でバリトンサックスを練習。
指導もしてもらえて大助かり。
本日は母親も東京へ出かける用事があったため、車で東京へ出た。
ついでなので、とこの友達をドライブに誘ったところ、この人が八面六臂の大活躍。
最後にはドライバーをもう1人巻き込み、全8人で東京を走り回るというとても当初は想定していなかった事態に発展した。
私はいい友達に恵まれたとつくづく思う。
ドライブ中は雰囲気もドライブ状態、いやオーバードライブ状態だったかも知れない。
みんなも楽しんでくれたなら、是非またやりたいものだ。
ちなみに途中にこんなものがあったが、上野ってこんな街だっただろうか?
母校の部活を訪問したところ。
試験前につき休部期間に入っていた。
在校生から事前連絡を頂いていたも関わらず、またしても失敗してしまった。
腹いせに千代田区まで出かけて散策。
水道橋から九段下まで歩いた。
車で通る時と違い、歩いて散策すると周囲を見渡すことができる。
意外と大学が多いことを実感した。
最終目的地は千代田区の中央図書館だったのだが、ここの設備はかなり凄い。
区役所の9階に陣を構え、16ヶ所のPC持ち込み可能ブース、8ヶ所のインターネット端末を持つ。
お目当てのCD蔵書量は大したことは無さそうだが、新書の蔵書数などはかなり期待できそうだ。
未来都市と言われて、どんなイメージを思い浮かべるだろう。
空飛ぶ車。
超高層ビル。
半透明の建物。
いろいろなイメージがあるだろうが、こういった科学的な未来都市になってしまうと、とても住みにくいであろう存在がいる。
それは、動植物たちだ。
犬、猫、鳥、その他様々な動物たち。
周囲が田んぼという環境で育った私にとっては、自然に生きる動物たちは当然そこにいる存在だった。
梅雨の季節には蛙が大合唱を奏でていたし、秋には電線に燕の親子が並んでいた。
庭には季節に応じてタンポポや紫蘇、柿が現れた。
映画「スター・ウォーズ」や「フィフス・エレメント」などで描かれる未来都市には、そんな環境は無い。
ゲーム「ファイナルファンタジーVIII」に現れる未来都市では半透明の道路と犬が平然と混在しているが、冷静に考えて半透明の地面に犬が不安を感じないとは思えない。
環境の重要性が認識されつつある今、科学的な未来都市は過去の想像物に過ぎなくなっているのかも知れない。
後輩から、私は哲学的だと評されたことがある。
しかし、私はきちんと哲学を学んだことが無い。
永井均『<子ども>のための哲学』と、ヨースタイン=ゴルデル『ソフィーの世界』くらいしか読んだことは無い。
一体、どんなところを評して哲学的だと思われたのか、今となってはわからない。
ただ、日本人は哲学的であるべきだと思う。
別にイデアは存在するのかとか、ウィトゲンシュタインがどうしたとか、そんなことは考えなくてよいだるう。
そうでは無く、信教の自由が認められ、そして無信教の人々が多い日本においては、哲学は避けて通れないはずだと思うのだ。
宗教に頼らずに世の中のルールを考えるのが哲学だと、私は思っている。
人生の意味。
善悪の基準。
そんな大それたことでなくてもいい。
誰も見ていない赤信号を渡るかどうか。
店員さんと話すときにこちらも誠意を見せるかどうか。
そういったことに自分なりの答えを用意することが、哲学だと思う。
言わば日本語で言う「人生哲学」が、私にとっての哲学だ。
人生哲学はヒトによって違うのが当たり前だから、誰にでも当てはまるとは限らない。
西洋の学問である哲学のように、誰にでも普遍的な真理なんて探す必要は無いと思うし、第一それはどうやって証明できると言うのだろう。
法律に抵触してしまうのは問題だろうが、そうでない範囲で自分の信念を打ち立てること。
それが、私にとっての哲学だ。
そして、宗教に頼らない道を選択したヒトは、そういう信念を持つべきだと思う。
病気や怪我は療養すれば治る。
だから闘病という言葉は、基本的に不治の病のときにしか使われない。
そう、早く気づくべきだったのだ。
鬱は「不治の病」だと。
だからこそ、闘病という言葉が使われるのだと。
だから、鬱と闘病して治す、という考え方は捨てるべきだと、今の私は思う。
療養して精神状態を安定させ、自分の精神が不安定になるような負荷が何であるかを知り、不安定な状態に陥らないような対象方法を身につける。
ただそれだけのことなのだ。
それを「治す」と呼ぶヒトがいても構わないが、私はこれを治すとは呼ばないと思う。
後天的に障害を負ったヒトが不自由なく社会生活を送れるまでに回復したとしても、それは「治った」とは呼ばないだろう。
それと同じことなのだと思う。
鬱は病気ではない。
後天的な精神障害である。
だから、治ることはない。
しかし、だからと言って今後もう社会生活が送れないわけでは無い。
その制約の中で精一杯生きるのが、私の生きる道なのだ。
一番助けを必要としているとき、私は必ず自室にいる。
考えてみれば、当たり前のことかも知れない。
助けを求めて行動している間は、まだマシな方なのだ。
一番辛いのは、助けを求める方法も、訴えかける相手も見失って、絶望的な気分で自室の天井を眺めているとき。
そして、これも当たり前のことだが、そんな状態の私は、多分ほとんどの方が見たことは無いだろう。
泣き方を、思い出したい。
泣き疲れれば、元気になれるような気がするから。
私は、認めたくは無いが遅刻魔である。
少なくとも、現実はそう物語っている。
認めたくないのには一応理由がある。
というより、遅刻魔であることは自認してはならないと思っている。
それは、ただの開き直りに過ぎない。
それにしても、なぜ2時間も前から準備しておきながら、肝心の電車には間に合わないのだろうか。
10年以上前からの疑問だったが、本日の行動を振り返って、遂にその原因の一端を掴んだ。
私は、出発直前に身支度を変える。
それも、頻繁に。
しかも、気分で。
対象は服装、鞄、靴、持ち物などほぼ全て。
事前に準備していたものとて例外ではない。
現に、本日は気分で前日に用意していた鞄を変えることにして、中身を詰め替えて出かけたら電車を逃した。
コロコロと気分を変えること自体は、もはや性格であって変えられないだろう。
その心変わりをたしなめる意思が弱いのか。
あるいは前日に準備した初志を貫徹する意思が弱いのか。
いずれにせよ、どうにかしてこの属性は返上したい。
Bloggerを編集していると、時々「ファンを自慢しましょう」という項目が出現する。
少し気になって別言語でログオンしてみたところ、UK版では"Show off you fans!"と表示される。
「誇らしいことなのでたくさんの人に見せること」は「自慢すること」なのだろうか。
「恥の文化」とも呼ばれる日本では「自慢」はあまり肯定的な表現ではない。
そもそも「自慢する」ことは「見せる」ことだけとは限らない。
どうもLongmanの訳を参考にするなら、これは賞状などを「飾る」に当たる表現であるように思う。
ひょっとして「ファン『を』自慢する」という日本語表現がふさわしくないのかも知れない。
ファンの多さ、あるいはどうやって計測するのかは別としてファンの質の高さなどならまだしも、量でも質でもなくファン「そのもの」を自慢する、という表現は日本語にはどうも似つかわしくないように思う。
たとえ直訳でないにしても「ファンを紹介しましょう」などの表現の方が日本語としてはふさわしいように思うのだが。
このブログをご覧の皆さん、英語にでも日本語にでも結構ですので、コメントにてご意見いただけませんでしょうか。
お待ちしております。
親友と言っても良い後輩から相談を持ちかけられた。
社会人としてうつと付き合う私に、少し話を聞いてみたいとのことだった。
発症してから気づいたことだが、私の周りでも実に多くの方々がこの症状で苦しんでいる。
そして何より驚いたことは、その大半の人々が自分がその症状を抱えていることを隠していたことだ。
私が倒れたことを知って「実は自分もそうでした」と教えてくれた友達は一人二人では無かった。
私の場合、発症の瞬間が「救急車で運ばれた日」とかなり明確である上、その前後の状況から鑑みて原因を一つとまではいかないまでもある程度絞り込むことができる。
しかし一般には、そこまで原因が絞り込めないことが多い。
それもまた、症状を抱えている人々がそれを隠そうとする遠因かも知れない。
うつを抱える多くの方は、自分と他人を比較して苦しんでいる。
一見平然と生きている他人と、そうは生きていけない自分との違いに悩み、苦しんでいる。
私も発症初期はものの見事にそうだった。
同じ仕事量をかけられていながら、何故同僚は平気で、私は倒れてしまったのか。
冷静に考えれば、同じ仕事量だからと言って同じ負荷が掛かっているわけでもないし、その負荷に耐えられる限界がヒトによって違うのも当たり前だし、そして何より、その負荷を受け流したり発散したりする能力や条件もヒトによって違って当然なのだ。
しかし私の経験から言えば、そうやって冷静になって考える余裕も能力も時間も失い、視野狭窄に陥るのがうつに苦しむ患者の特徴である。
自分と他人を比較すること。
それを一概に悪いことだとは言わない。
自分が持っていない魅力を他人に感じて、それを成長の糧にできるなら。
しかし、比べたって仕方がないことだってある。
氏素性や生まれ育った環境などの過去。
現在の器量の広さや性格。
それは量的に計測できるものでは無いのだから、比較して悩む意味すらないだろう。
どうせ比較をするなら、未来の自分同士を比較したい。
今ある目標を達成した自分と、達成できなかった自分を比較してみたい。
それは、きっと自分の成長の糧にできる。
相手がどう思っているかはともかくとして、私は多くの後輩を親友として見ている。
今日はそんな後輩の一人と共に母校へ出向き、在校生と一緒にジャムセッションを楽しんだ。
と言っても私の腕前はへっぽこだし、ベースラインを弾きながらの演奏だったので四苦八苦だったが。
Jamは文字通りのジャムのことで「ごちゃまぜな」、Sessionは最近日本でも使われるようになったがここでは「演奏」としておこう。
曲目をはじめとした最低限のルールだけ決めて、あとはお互いにアイコンタクトやジェスチャーを交えつつ即興で演奏を楽しむ、ジャズの醍醐味の一つである。
何も手取り足取り教えることだけが、先輩の役目ではない。
というより、もはやそれは在校生の先輩の役割であって、同窓生となった私の役目ではないだろう。
もちろん在校生に「やってみる?」と水を向けることくらいはしているが、だからと言って無理矢理やらせるのは楽しむことが第一のジャズにおいてもっとも避けるべきことの一つだろうと思っている。
在校生だって捨てたもんじゃない。
彼ら彼女らも立派な一人の人間だ。
少々おこがましい言い方であることは覚悟の上だが、遊んでいる我々の姿から、何かしらの雰囲気を感じ取ってくれればいいと願っている。
母が「私の知る限り、復職について最も詳しく書いてある本」として紹介してくれた本がある。
著者の上野玲は、恐らくうつになったことがある方なら名前は必ず聴いたことがあるであろう人物だ。
10年もうつと付き合い続けているフリーライターであり、本名を公開して数々の著書を残している。
以前、同氏の『アカルイうつうつ生活』という著書も読んだことがあるが、それから著者にもかなり心境の変化があったようだ。
率直に言って、この本は自分のうつ状態を客観的に振り返ることができるような調子の良い日でない限り、うつの患者が読むべきではない。
特に、第5章「自助努力こそ必要だ―患者たちの甘えの構造」は、どん底にいる方には読むのがあまりに苦しいだろう。
一方で、社会復帰を本気で視野に入れている方か、もしくは自分はうつとは無縁だと考えている方には是非読んで頂きたい本だ。
新書なので1時間あれば読むことができる。
お時間の無い方は「プロローグ」と第4章「頑張れば頑張るほどうつになる―日本の風土病なのだろうか!?」だけでも目を通していただきたい。
また、うつではない方は第3章「企業と自衛隊のメンタルヘルス対策」が参考になるだろう。
できれば「届いたのは遺書だった」から始まる「エピローグ」をまず読むことをお勧めしたい。
「うつは心の風邪などではない。死にも至る、重篤な生活習慣病だと思う」
「その危機意識を、うつ患者のみならず、社会全体が受け止めなければならない時期にきている。患者が声高に言い続けていかなければ、誰も気づかない」
上野玲『日本人だからうつになる』中公新書ラクレ277、中央公論新社、2008年。
少し風邪気味。
止まらないくしゃみと鼻水。
昨日のドライブの帰りに、半袖のくせに窓を全開にして高速道路を突っ走ったせいだろう。
あるいはその後倒れるように寝たときに寝冷えしたか。
新型インフルエンザの危険がある中、体調が良くないのにヒトゴミへ出るのは避けたい。
せっかくバリトンサックスの腕前が向上しつつあるのだが、今日は合同練習への参加を断念した。
体調管理も社会人の仕事。
寝冷えなんてもってのほかなのだが。
今でも私は未熟である。
♪子供でいたい ずっとトイザラスキー
大好きなオモチャに 囲まれて♪
そんなCMソングが流れていたころ、私は高校生か大学生だった。
その頃は、オトナになんてなりたくなかった。
今思えばその最たる原因は、私が「オトナにならないと楽しめない遊び」をほとんど知らなかったせいであるように思う。
それは、お酒でも煙草でも吞み会でも合コンでもなくて、もっと楽しいこと。
本日は友達を誘って夜の東京をドライブ。
首都高はETC割引560円でどこまででも乗り放題。
北部の中央環状線は都会の明かりが見え、山手線の西側には新都心や公園が広がり、東南には海沿いの緑地で潮の香りを満喫でき、最後に臨海副都心の高層ビル群も楽しむことができる。
その途中では、千葉~茨城沿岸一周ドライブなんて構想も飛び出した。
夏にクルマの窓を開けて、気の合う友達とのんびりめぐってみたいものだ。
今月は船舶免許取得月間。
出かけるときは常に参考書を手にしている。
現在、船舶免許には4種類しか無い上、洋上で操縦するには二級以上の免許が必要だ。
二級は沿岸から5海里まで、という制約があるため、最終目標の小笠原クルーズには出られない。
そこで一級を取ることにしたのだが。
率直に言って、覚えるべきことがかなり多い。
外洋での操船のために必要なコンパス、ブイ、海図などに関する知識をゼロから詰め込まなければならない。
ええい、悩んでいる暇があったら勉強だ。
新婚旅行の機会に恵まれたら小笠原までクルーズに出ようと提案してみたい、という野望のために。
以前借りてきたCD"Here at the Mayflower / Barry Manilow"はかなり私好みの曲が揃っている名盤だ。
その中でも、2曲目の"Come Monday"は名曲と言えるだろう。
サビの歌詞だけ紹介したい。
Come Monday !
Come Monday !
My life starts again
My new point of view is beginning
Come Monday !
That one day
My ship's comin' in
And this time I'm ready to roll !
通常、月曜日は「また仕事が始まる日」と消極的に捉えられることが多い。
軽快な8-Beatに乗って"My life starts again"と明るく言い切るこの曲は異色だと思う。
来るなら来い、月曜日。
明日は月曜日。
俳句を始めた。
本日は母校の同窓会が主催する定期イベントで、先輩に俳句を添削して頂いた。
以前から音楽は好きだったが、ピアノから音楽を始めただけあって、当初は歌に全く興味が無かった。
しかし、洋楽に触れて歌の持つ力を実感してからは、歌詞にも興味を持ち始めた。
その結果、作詞も始めるようになった。
作詞を始めてわかったことは、言葉に複数の意味を与える面白さ。
説明的な文章を省いて、詞からいろいろな想像ができるようにする楽しさ。
そして、自分にはその能力が不足していること。
その力を磨くには、やはり一番良いのは俳句である。
6月のお題は「夏の季語を入れる」だったのだが、私はその中で更に「成長の夏」というお題を付けて詠んでみた。
用意していったのは以下の三句。
そして、以下のように添削していただいた。
次回は9月。
お題は「小さい秋見つけた」に決めた。
本日は雨模様だったので、自動車で外出。
札幌から帰省して以来、クルマの中では基本的にFMを流している。
私のお気に入りは81.3MHz「J-Wave」。
最初は名前から勝手にJ-Popsしか流さないのかと勘違いしていたが、実は半分は海外曲という意外とワールドワイドな放送局である。
ラテン音楽専門番組まであるのだ。
最近では新しい音楽と出会う場はもっぱらこの瞬間だ。
J-WaveのWebページには「今日のオンエア曲」が一覧で載っているので、気に入った音楽があったら時刻だけメモしておけば後から確認できるのも魅力の一つだ。
次にクルマで出かける日はいつになるだろう。
Q: 元気ですか?
A: 全然ダメです。
本日は定期主治医面談の日。
振り返ってみると、久々に気分の谷がやってきている。
かといって友達の前でいかにも病人ぶるのも気が引けるので、予定は予定通りこなす日々。
そもそも、気分の谷であろうとなかろうと活動できないと、仕事に復帰するなど夢のまた夢だ。