2009年7月29日水曜日

頭文字D

原作ではDはDriftのことらしいが、ここで言うDはDriveのこと。

母校へ行ったところ、思いかけず友達が車で来ていたので、ドライブに連れていってもらった。

最後は勢いで私の自宅付近まで私が運転していくことになったのだが。

高速道路の側道をほとんどブレーキを使用せずに走る私の走法のために車内は大絶叫。

更に勢いで窓を開きカーステレオから"The Jazz Police / XXL" by Gordon Goodwin's Big Phat Bandを流して走ると、もはやジェットコースターより怖い。

同乗者の友達の一人が「この曲ってこんなに怖かったんだ」と思わず漏らすほど。

一応申し添えておくが、私の運転は決してスピードを出しまくるわけではない。

ブレーキをあまり使わないだけである。

事故や違反の経験を経て、必要なブレーキも身につけているつもりだ。

そうは言っても、あの車内を考えるに「私の運転は怖い」という認識は今後も広まっていくのだろう。

2009年7月24日金曜日

魔の金曜日

金曜日は、私にとって魔の日である。

月曜日からの疲労が祟って倒れることが多いのだ。

具体的には、全身に痺れが走り、たとえお腹が空いても暑くなっても動く気力が起こらないような状態でいる。

かといって眠ってしまうこともできず、何も考えずに中空を眺めるのが常である。

主治医の先生からは月曜日から飛ばしすぎないよう注意を頂いている。

来週からしばらく東京へ出るのを控えようか。

2009年7月23日木曜日

音楽と花火の融合

そう言えば、一時期「放送と通信の融合」を叫んでいた方は今頃どうなさっているのだろうか。

風の噂では会費制の講演会などを行っていらっしゃるそうだが。

本日は「足立の花火」。

ここ足立区のものに限らず、最近はあちこちの花火会場で「光と音の饗宴」などと題して花火に音楽を合わせようとする試みが増えたように思う。

しかし残念ながら、私の見方ではいずれも悉く失敗している。

花火が開くタイミングにぴったり音楽が合うと、私には花火が遅れて見える。

花火が完全に開き切るのは、当然ながら花火が開き始める瞬間よりも一瞬後だからだ。

そもそも、一発勝負の花火に対して録音の音楽を当てるという感覚が間違っているのだと思う。

その日の湿度や風などの天候を始め、花火が開くタイミングには多くの要素が関わっている。

そこへ録音された音楽を無理矢理合わせるというのは、あらかじめ録音されたバッティング音に合わせて野球の打者がボールを打つような違和感を感じる。

かといって、緊縮財政のご時世に花火に合わせて生演奏、というのもなかなか難しいだろう。

荒川区や板橋区のようにプロ同然の市民楽団があるような場所ならその協力があれば不可能ではないかもしれないが、それにしてもかなりの困難を伴う。

色々考えたが、本気で「光と音のシンクロ」を目指すなら、花火師がDJになって音楽を流すのがベストではないだろうか。

音楽に花火を合わせるのではなく、花火に音楽を合わせるのである。

全国の花火師の皆さん、ぜひDJに挑戦してみていただきたい。

付言すると、音楽と言えば管弦楽クラシック、というのもなんだか陳腐な話である。

そもそも、管弦楽は静かに演奏する部分があって初めて成立するものであって「静かさ」を表現しにくい花火には非常に不向きだ。

和太鼓をはじめ、花火に似合う音楽はもっとあるはずだ。

何なら私の大好きなビッグバンドでもいいのではないだろうか。

例えば"The Heat's On"( in the Album "The Basie Big Band", by Count Basie and his Orchestra)などいかがだろう。

タイトルも雰囲気も華やかな花火には打ってつけだと思う。

ビッグバンドでは風情を感じない、というのは確かにあるが。

2009年7月22日水曜日

Earth, Sun and Moon

日食は、古くは「日蝕」つまり太陽が蝕まれる現象を指した。

それは畏怖すべき事柄だったし、今でも無邪気に楽しむものではないと思う。

こんなときしか空に目を向けない人間にはなりたくないと、そう思う。

太陽は雲の向こうから、地球を照らしている。

月もいつも地球のどこかを、そして今回のように時には太陽と同じ方向から、地球を見つめている。

日食をどう受け止めるかは各自の自由だが、一言だけ申し添えておきたい。

人間は皆既日食がいつどこで起こるか予測できるのに、その場所の天候すら予測できないということを。

2009年7月21日火曜日

不眠再発。

睡眠剤は飲んだはずだが、不眠が再発した。

昨夜から明け方まで、ぼーっとしたまま起き続けている。

それでも、眠れないからと何かを始めたりしなくなったのは進歩かも知れない。

ひたすら何も考えず天井を眺めていることができるようになった。

それにしても、いきなりどうしたのだろう。

また何かで頭が悩みだしたのだろうか。

2009年7月20日月曜日

弐厘

昨日の土手で、年甲斐もなくサッカーボールにヘディングをかましたら眼鏡のフレームが曲がった。

やはり止めておくべきだったか。

本日は日がな裸眼生活。

私の裸眼視力は0.02である。

ランドルト環は迫ってくるもの。

全ての境界が滲んでいく。

ぼくの手の輪郭も、あなたが着ているTシャツも、

滲んで空気に融けだして、つながって一つになる。

どこまでもぼくが続いていく気がして、

どこからでもぼくまで辿って来られる気がして、

なかなかこの世界が好き。

本当に融けたらどうなってしまうのかわからないけど、

砕け散るよりは痛くなさそうだし。

もう少しだけ、融けてる気分でいさせて。

2009年7月19日日曜日

火遊びにご用心

私より若い人々と遊びに行くこと自体が、周囲から見れば火遊びに等しいのかも知れない。

だから花火をしている後輩たちを眺めているだけで、私には充分である。

そう言えば、今日は綺麗な副虹が見られた。

麒麟の仕業か。

2009年7月18日土曜日

今年初達成。

今年初めて、ウィークデイを通じて東京へ通うことに成功した。

時間こそ午前11時台に到着という遅めのものだったが、一つの大きな足掛かりになる。

と言いつつも、本日はその疲労が祟って一日中動けなかった。

思えば札幌時代も土曜日と言えば倒れていたような覚えがある。

疲れが溜まりやすいのか、抜けにくいのか、それとも他の方々とは違う疲れの要因が加わっているのか。

2009年7月17日金曜日

丹後縮緬

突然だが、私は和服が好きである。

池袋に着物のリサイクルショップがあると知り、顔を出してみた。

手始めに見学に行き、外出できる浴衣でも買おうかと思っていただけだったのだが、柔らかい紫色をした絹の一反物の着物に一目惚れした。

残念ながら帯には恵まれなかったので、別の場所で買おう。

2009年7月15日水曜日

メンタルケアの両輪

鬱対策、いわゆるメンタルケアの充実を謳う企業は多い。

しかし実際に患ってみると、本当に充実していると言えるのか疑問に思うことがある。

鬱に陥った者を休ませる休職の仕組みは、メンタルケアの一部に過ぎない。

休んだ結果回復した者を順調に復職させる仕組みが無ければ片手落ちである。

簡単に言えば、働けない者を休ませることはあっても、休んでいる者を復帰させる姿勢は医者任せ、というのが現状なのだ。

メンタルケアの充実を喧伝する企業に対しては、この出口戦略があるかどうかを質問して確認する必要があるのだろう。

2009年7月13日月曜日

保守VS革新? 階級闘争?

今回は珍しく政治の話題である。

最近は政治の世界が賑やかだ。

先週まで東京は街宣車と街頭演説があふれていたが、どうやら今度は全国でそれが起こるようである。

日本では階級対立闘争の構図が長く続いた。

自民党が資本家の、社会党が労働者の代表だった。

だからかも知れないが、国政選挙では階級闘争の構図が現れてきた。

しかし民主党は違う。

彼らは連合の支持を得ているとは言え、政策的には決して労働者の代表者ではない。

保守政党では無いのは明らかだが、彼らの政策はどちらかと言えば資本家、より正確に言えば私の好きではない言葉だが「知識人」寄りである。

保守か革新かという軸と、資本家寄りか労働者寄りか、という軸は日本では歴史的に一致すると見られてきたが、確実に別物なのである。

資本家寄りの保守政党が自民党と公明党。

資本家寄りの議員と労働者寄りの議員が混在しはっきりとは言い切れないが、確実に革新政党なのが民主党。

労働者寄りだが保守政党のような行動を取るのが日本共産党。

そして労働者寄りの革新政党を自負しているが、もはやその地位は失墜した社民党。

このように軸を2つに分けることで、各政党をはっきり区別できるし、自分の政治態度もわかりやすくなるのでは無いか。

ついでなので今回の都議選についても自己分析しておくと、結果を見る限り今回起きたのは政権交代への期待、裏返せば麻生政権への拒否反応であることは否めない。

民主党のみが躍進し、共産党や社民党、生活者ネットワークなどの他の政党が議席数をほぼ半減させてしまったことがその根拠である。

政権交代の能力を持っているのは今のところ民主党以外に無いし、そのことを有権者が意識していることが結果から読み取れると思うのだ。

国政と都政は確かに別である。

しかし、有権者は同じである。

だから結果がリンクし得ることは存分にあり得るし、民主党が第一党として連立政権を組む可能性は無視できない。

ただ、私自身は民主党政権が長持ちするとはまったく思っていない。

その理由まで書くと長くなってしまうので、それは日を改めようと思う。

ちなみに、私が政治を注視しているのは、私が証券屋であり、またETF投資にかかわっているからに過ぎない。

政治にさほど興味は無いので、政治課題については大半が明るくない。

政治課題や政策の話題を振られても付いていけない可能性が高いので、ご了承いただきたい。

2009年7月12日日曜日

弾けないアレンジ

本日一日を費やして、大体完成した。

The First Circle (Piano Solo Arrangement : Page 8 Only) / Pat Metheny Group

聴こえた音はすべて盛り込むのが、私のピアノソロアレンジの手法である。

弾けない声部は弾かなければよいと思っているので、とりあえず譜面が真っ黒になるのだ。

どう見ても今回のアレンジメントも弾けそうにない。

弾けた方、コメントにてご自慢ください。

2009年7月10日金曜日

封印宣言

他人から指摘されないと気付けない問題点は、往々にしてある。

今回の指摘は私にとって非常に悔しく辛いことだったが、その通りだった。

私は、仕事をするために休息しているのだ。

大学生活に戻るためでも、人文科学の研究をするためでも、ましてや演奏活動をするためでもない。

だから平日の日中は、仕事をしている気分でいた方がよい。

読書や研究はまだしも、楽器の演奏など論外なのだ。

平日の自由行動を封印する。

それは社会人ができることではないから。

自由行動を封印しても大丈夫なくらいには、私は回復したという自負もある。

2009年7月8日水曜日

時間管理

大学時代、私は学習に勤しんだという自負がある。

それでも考えてみると、大学時代を遊びに費やしていた方と生活時間に差は無かった。

大学へ行くのが遅刻ギリギリなのは日常茶飯事。

実際に遅刻したケースも指折り数えられるレベルを超えている。

社会人と大学生の最大の違いは、時間感覚にあると思う。

何はともあれ時間厳守。

それが社会人の鉄則だ。

今、私の生活状況は大学時代の自分にまでは回復した。

しかし、だからと言って社会生活が送れるわけではない。

社会人にふさわしい生活時間を維持できるようになるまで、もう少し努力が必要だ。

働きたいと主張するなら、それができなければ話にならない。

2009年7月7日火曜日

同窓生の義務

クリスマスよりはるかにロマンティックでホーリーなこの夜に、他人といがみ合う夢なんて見たくなかった。

同窓生は、在校生が

  1. 自らの方向性を形成する際、情報提供以上のことをしない
  2. 願いを叶えようとする際、その手伝い以上のことをしない
  3. 決定を下す際、立ち会いを含む全ての強制力を働かせない

この三原則は今この場で私が考えたものだが、鉄則であると思う。

在校生が変革の必要性を感じていないときに、同窓生が変革を強要することは明らかにおかしい。

もし働きかけをするなら、まず在校生に変革の必要性を実感していただくのが先決だ。

それでも在校生が変革の必要性を認識しなかったら、同窓生は変革を諦めるべきだと思う。

それでも変革を断行するのは、院政でしかないのではないだろうか。

在校生のためを謳いながら、在校生の望みをきちんと理解する努力を怠ってはいないだろうか。

在校生に関わる同窓生は、在校生に対する発言力が強い分、常にそのことを考える義務を持っていると思う。

いや、たとえ在校生に対する発言力が強くなくても、大人として接する限りこの義務は変わらないと思う。

以前、多様な同窓生がいることが魅力なのであって、同窓生に一律に義務を課すことはその多様性を損ねると反論されたことがあった。

しかし、学校の同窓生が在校生と接する際に、教育的配慮を働かせなくてもよいとは考えられない。

いかに同窓生であろうと、それができない者が在校生と関わること自体が害悪だ、と私は断言する。

それは個性の問題ではなく、基本的な人間性の問題である。

2009年7月6日月曜日

対位法

対位法を学び始めた。

クラシック音楽の作曲法の中に、和声学と対位法という2つの手法がある。

厳密には違うのだが簡単に言うと、和声学は2つ以上のメロディを絡める場合の注意点をまとめたもので、対位法は各メロディが別のメロディの真似をしながら絡み合う、カノンやフーガなどの音楽における注意点をまとめたものだ。

ここでいうメロディとは現在主流であるホモフォニー、つまり1つのメロディがメインで他はそれを支えるだけのもの、ということではなく、すべてのメロディがメインメロディとなり得るポリフォニーの世界である。

500年くらい前の教会音楽などを思い浮かべればよいだろう。

私はポピュラーミュージックにおけるコード理論を学んだことがある。

コードは和音と呼ばれ、その瞬間の複数の音の響きについての理論がコード理論である。

しかし、ハーモニーは和声と呼ばれ、これは各メロディの次の音への進行に関する理論である。

対位法もハーモニーに注意を払うから、言わばコード理論を縦糸の理論と呼ぶなら、和声学や対位法は横糸の理論とでも言えるだろう。

経糸のコード理論をきちんと知っていれば、和声学も対位法もそれほど難しくはない。

注意したいのは、和声学や対位法にこだわると同じような曲しか書けなくなること。

実際、和声学や対位法に忠実な音楽はすでに出尽くしていると言っても過言では無いだろう。

現代の音楽では、和声学では禁じ手とされてきた手法を敢えて使用することで新しくカッコいいサウンドを生み出しているものが少なくないからだ。

理論はあくまで理論。

作曲で最後に重要になるのは、結局は直感である。

2009年7月5日日曜日

気分の谷

今回の谷はかなり酷かった。

ブログ更新もままならない疲労感、虚脱感。

生きていく気力が失われ、ただひたすら回復を待つ状態。

同じような状態は、思い返せば大学生の頃からしばしばあった。

この調子の浮き沈みを制御する方法はあるのだろうか。