2009年4月21日火曜日

音楽は必要なのか。

カナダへ留学している後輩が心理学のレポートで高得点を叩き出したというので拝読した。

音楽は生存するために不可欠な要素ではない。

しかし、音楽を聴いた時、脳は食事を摂ったときのような非常に原始的な反応をするという。

とは言え、音楽を「環境に適合した結果、ヒトが普遍的に獲得したもの」と考えられるのかどうか。

この問題について考察した力作だ。

大学在学中の恩師の著書に「文化はヒトが生きるための道具」という表現があったような気がする。

ヒトは非常に未熟な状態で生まれてくる上、狩りをするにも暖を取るにも道具が必要であり、生物的にはかなり不完全だ。

確かに木の実を採集し、暖かい場所を探して動き回れば、道具が無くてもヒトも何とか生存できるだろう。

しかし、恐らくは森を追われて地上に追われた我々の祖先は、道具を使って狩りをし、火を使って暖を取り、衣服を繕い、言語を介して情報を交換して、より確実にその地域で生存するための技術、いわゆる「文化」を身に付けてきたはずだ。

ということは、文化が無くてもヒトは生存できることになる。

その意味では、どこまでが「生存するために不可欠な要素」なのか、それ自体が曖昧である。

また、レポートには「子守唄は普遍的である」という考察がある。

極端なことを言えば、ヒトは胎児のときから母親の鼓動を聴いて育つのだ。

会話にもペースがある。

ヒトの生活には、実はリズム、テンポ、メロディなど、音楽の原型となるものがあふれているのではないだろうか。

以上から、私は直感的に「音楽は文化であり、文化はヒトに不可欠なので、音楽は不可欠である」と考えている。

そもそも「音楽は生存するために不可欠な要素ではない」という主張自体「生存」という言葉を「死なないでいられる」という消極的な意味でしか捉えていないのではないだろうか。

バリ島のケチャやアフリカの民族音楽など、世界には生活に根ざした音楽がたくさんある。

そして、それを彼ら彼女らからとり上げて禁止した場合、彼らは「生存」はしていけるだろうが、これまでどおり「生活」していけるだろうか。

生存権を保障する日本国憲法の条文を借りて「生存」という言葉を「健康で文化的な生活を送る」と考えるなら、やはり「音楽は生存するために不可欠な要素である」のではないだろうか。

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