2009年5月30日土曜日

好き嫌い。

出会いにつきものなのは、自己紹介。

本日は、母校の部活の顔合わせに参加してきた。

確か昨年は札幌へ行っていて参加できなかったので、2年ぶりの参加となる。

そこで気付いたのは、学生たちの趣向だった。

具体的には「好きな人・物・事/嫌いな人・物・事」について。

私も10代の頃は、好き嫌いを少なくしようとする傾向にあった。

嫌いな物、嫌いな事、嫌いな人は、作らないでいられると思っていた。

その代わりに好きな物、好きな事、好きな人ができなくても、それは仕方がないと思っていた。

しかし、その後の10年は私を大きく変えたと思う。

物事は見方を変えることで、嫌いになることを免れることができる。

それでもヒトだけは例外だ。

嫌いな人というか、うまく話が合わせられないヒトは実際にいるし、きっとその時は相手も楽しい時間が過ごせてはいないだろう。

だから今では、ヒトの好き嫌いをかなり明確にしている。

私は、目的意識が固まっているヒト、もしくはそれを探そうとしているヒトが好きだ。

しかし、思考回路が固まっているヒトは嫌いである。

2009年5月27日水曜日

はじめました。

バリトンサックス始めました。

キャリアは今日で3日目。

まだ手入れの方法も覚束ない新人である。

そんな状態のくせに楽団で吹こうと思っているあたり、自分でも無謀な気がする。

とりあえず、安定して狙った音を伸ばせるようにならないと。

その次は明確なアタックとタンギングが必要だ。

運指はその後だ。

6月いっぱいで形にするのが目標。

2009年5月25日月曜日

新世代出現。

母校の部活を訪問してみたら、新入部員が来ていた。

そろそろ十二支が一回りすることは想定していたが。

新入生は、早生まれだった。

一回りどころじゃない。

しばらく立ち直れそうにない。

本気で「OB引退」を考えないと。

2009年5月22日金曜日

満員電車。

「満員電車」という詩がある。

東京メトロが行っている詩の募集に選ばれたものだ。

本日の帰りは満員電車だった。

重さ20kgの楽器を連れていた。

楽器に変な方向から圧力を掛けるのが嫌だったので、最後まで乗らなかった。

発車ベルが鳴った。

慌てて駆け込もうとした男性が「うわ!」と叫んで別のドアへと駆けていった。

アルコールが充満した車内。

鏡と化した窓。

隣にもたれかかるひと。

電話を掛け始めるひと。

この電車に、この閉ざされた世界に、花束をください。

2009年5月21日木曜日

復職は近い?

本日も産業医面談。

書き忘れたが、昨日は主治医面談があった。

どうも先月のカルテでは「眼光が鋭い、語気が荒い」など散々な書かれようだったらしいが、今回は面会した瞬間から「穏やかになった」と仰ってくださった。

問診でも触れることになったが、やはり5月の連休で多くの人と出会い、自分を相対的に見られるようになったことが最大の転機だったと思う。

何より、その時に会った社会人の友達は輝いて見えた。

引け目を感じたとネガティブに捉えればそれまでだが、大学時代に持っていたはずの、仕事をしている人への単純な憧れが蘇ってきたように思う。

ただ、その気持ちになってから、まだ2週間しか経っていないのが現状だ。

とかくこの病気は「明日はどんな気分かわからない」という厄介な症状がある。

まずは次の産業医面談までの1ヶ月間、この気持ちを持続させることが重要だという。

それが果たせた場合は、7月からテスト出社できるらしい。

あっ。

このタイミングで復職すると高校時代の部活の合宿に行けないかも知れない。

ま、そのときはそのときで「病み上がりですので少しお休みを頂きたい」とでも言ってみればいいだろう。

どうせ8月は仕事の能率が悪い期間だ。

2009年5月20日水曜日

姿勢。

最近、電車の中で足をガニ股のように広げて座っている男性が増えたように思う。

短足の私には絶対できないことで、迷惑ながらもちょっと羨ましかったのだが、今回そのカラクリを発見した。

そういう座り方をしている方は、総じて私より肩の位置が低い。

つまり、そういう方々はきちんと腰かけているのではなく、浅く腰かけて椅子にいわば「もたれかかって」いるのである。

だから足が折りたたみ切れず、ああやってガニ股になってしまうのだろう。

余計な心配だが、あれでは将来猫背になったり、悪くすれば腰を痛めてしまうのではないだろうか。

猫背の私には、我が振りを直すいい機会になりそうだ。

2009年5月18日月曜日

Want to do? Have to do?

私の周囲で、偶然にもこの話題が多くなっている。

「やりたいからやる」と「やらなければならないからやる」について。

日本語だと長いので、英語で「I want to do」と「I have to do」とでも表現しよう。

私にとって、「I have to do」は気をつけなければならない言葉のひとつだ。

この言葉にどれほど苦しんできたことだろう。

あるときは、自分で勝手に「I have to do」と思い込んで。

あるときは、他人から「You have to do」と言われて。

そしてあるときは、ヒトですらない会社やら社会から「You have to do」と要求されて。

私の耐久力が低かったことも原因にはあるだろうが、とにかく、そうやって私の人生を一時的にも潰した言葉である。

今でも、気を緩めるとすぐに「治らなければならない」という強迫感と闘う羽目になる。

だから、今では私は「I have to do」を「I want to do」で塗り替える技術を身につけよう、と思っている。

ここまで辿り着くのには半年かかった。

何せ最初は「塗り替えなければならない」と、やっぱり「I have to do」な思考をしていたのだ。

「やらなければならない」を「やった方が自分にとって良いに決まってる」を経て「自らやろう」と思うようになるには、劇的な性格改造が必要だ。

現に、アタマではこう思っていても、すぐ「やらないといけない」というように「I have to do」で物事を捉えている自分がここにいる。

周囲の環境は、もう決められている。

相手の性格、会社の性質、社会の体質は、自分の都合のいいようには覆せない。

だから、その与えられた環境の中で、どんな行動が今の自分に、未来の自分に、まとめて言えば自分の人生にとって最もプラスになるのか。

そう考えれば、「I have to do」の裏側にある「I want to do」の糸口は見つけられるはずだ。

時には、どう考えても「I have to do」の中から「I want to do」が見出せないときもあるはずだ。

考えたくはないが、もし不正や犯罪を指示されたら「I have to do」と「But I do not want to do」の間の溝は埋められないだろう。

そのとき、「I have to do」から逃れる手段はあるだろうか。

原点に立ち戻って、与えられた環境の中で、どんな行動が自分の人生にとって最もプラスになるのか、を冷静に考えるしかないだろう。

その結果「I do not do」を選択して、その社会から叩き出されることもあり得る。

でも、社会のために自分を悪に染めるくらいなら、自分の人生の方が大事だ。

今の私は、そう思えるくらいには成長した、はずだ。

大人になるということは「I have to do」と「I want to do」の擦り合わせがうまくできるようになる、ということでもあるのかも知れない。

2009年5月17日日曜日

恋と愛。

先日述べた親友から聞いた話だが、愛という言葉は明治になってできた言葉だという。

本当かと思って少し調べてみたが、正確には「明治に入って愛という言葉に新たな意味が与えられた」ようである。

古くは、愛とは主として思いやりのことであったようだ。

万葉集時代からその言葉は見られる。

特に、男女間においてそれを「恋」と呼んだようだ。

また、転じて好むことや大切にすることも愛と呼んだようである。

「愛でる」や「愛しい」という言葉にその意味が現れているように思う。

なお仏教では、愛とは愛欲もしくはそれに溺れることであり、どちらかというと人間の迷いのひとつであり、解脱を妨げる否定的な単語であったようだ。

さて、肝心の明治に入ってからの意味だが、これはキリスト教のアガペーに対する訳語であるという。

つまり「神がヒトに対して注ぐ、自己犠牲的で一方的な恩寵」というキリスト教の思想に対して愛という言葉があてられたというのだ。

先程の親友によれば「愛は見返りを求める」ものなのだという。

神はヒトではないので、自己犠牲的でも一方的でも恩寵を与え続けることができるかも知れない。

しかしヒトはそうはいかない。

そんなことしていたら自分の身が持たない。

だから、ヒトは見返りを期待することで、そして実際に見返りを得ることで、どうにかこの意味での「愛」を実現しようとするのではないだろうか。

その意味で、親友の言葉は逆説的に正しいのかも知れない。

かつては私も、アガペーとしての愛を持った人間を目指そうとして失敗したことがあった。

一方的博愛を目指して、失敗したことがあった。

その経験を踏まえて、世俗的で昔から使われていた、思いやりとしての愛を持った人間でありたいと思う。

そしてその思いやりが特定の相手に向けられるとき、それが「恋」なのだろう。

2009年5月16日土曜日

婚姻。

同期が、結婚した。

婚姻は、社会制度に深く根ざした絆の作り方であり、集団同士の交流の仕方のひとつだった。

自由な恋愛が当たり前になり、婚姻もそれによって社会制度からは遊離した。

そんな今、婚姻が意味する新しい絆とは何だろう。

直感的に、結婚するということには特別な意味があると思う。

ただ、国家のお墨付きを得るためだけじゃないはずだ。

ただ、神のお墨付きを得るためだけでもないと思う。

その絆は、大切なもの。

たとえ未来永劫は続かないとしても、この瞬間には確かにあったもの。

結婚とは、そのことを叫ぶ瞬間なのかも知れない。

2009年5月15日金曜日

Web+市場社会+資本主義=破滅?

5歳年下の後輩がいる。

相手が私をどう扱っているかはわからないが、私は腹を割って話せる親友だと思っている。

その親友が持ち出した話は、私を恐怖に染め上げた。

Webは、危険だ。

これまで漠然と「どんな人にも自分のことを知られてしまう」ことには恐怖を感じていたが、もっと根本的な危険がある。

このまま行くと、Webは私に処理不可能なほど大量の情報を流し込み、私は情報の取捨選択ができないまでに追い込まれる。

これまでの経験から言うと、そういう状態に陥るとヒトは情報を精査しなくなる。

何せ、1つの情報を精査している間に、10件の新しい情報が流れ込んでくるかも知れないのだ。

そうなれば、ある程度盲目的に情報を信じ込むしかない。

つまり「情報に踊らされる」時代がやってくる。

誰かがぼそっと「銀行が潰れる」と言えば、そうなる。

その銀行が本当は潰れそうになくても、後からどんなに頑張って誰かが「潰れません!」と叫んでも、動き出したら止まらない。

そんな時代がやってくるかも知れないというのだ。

それは、ヒトが自我を保っていられない社会と言えるだろう。

自分の考えを形成して保持することが非現実的なほど困難な社会。

だからといって多くの人が自我を放棄すれば、やってくるのはヒトが他人に流される社会だ。

自分流の生き方など望むべくもない。

ここまで考えが辿り着き、私は言いようのない恐怖に襲われた。

更に、私がこれまで考えてきた市場社会と資本主義を導入すると。

Webは際限なく拡大して、最後には世界全体を席巻する。

資本主義はより効率的に資本を集めるために、市場をWeb上で拡大していくからだ。

一見、誰でも、いつでも、どこでも、どんなものでも手に入るようになり、便利な時代に見えるのが更に厄介だ。

地理的な制約を受けないWebは、宇宙ステーションをも射程に収めるかも知れない。

社会は、気が付いたときには独裁制になっているかも知れない。

考え過ぎだろうか。

答えはきっと、私の生きているうちには明らかになる。

2009年5月14日木曜日

Sibelius初作品。

今朝方から作業して、遂に完成した。

Mighty Mighty by Earth, Wind & Fire (Page 1 Only)

いずれは曲数を増やして、バンドを立ち上げたい。

2009年5月13日水曜日

ビジネス書の氾濫。

私は、いわゆる「心得何ヶ条」や「社会人マナー」タイプのビジネス書は読まない。

当初は、ただの意地だった。

そんなもの人に指南されるもんじゃない、という反抗心が主だった。

しかし昨日書店で感じたのは、全く別の視点だった。

我々は、いつの間にか「相手の立場に立って物事を考える」能力を失ったのかも知れない。

マナーにしても言葉づかいにしても、基本的には「相手の感情を害さない」「相手と良好な関係を築く」ためのものだ。

だから、相手の立場に立って物事を考えれば、おのずと答えは見えてくるはずだと思う。

それを、安易に1'000円程度の本を買えばどうにかなる、と思うのはどうだろうか。

2009年5月12日火曜日

卒業論文。

捕鯨問題特集に卒業論文を掲載した。

あまりの誤字の多さ、議論の順序の間違いなど、掲載する気が失せる事態に何度も出くわした。

それでも、この作業は無駄ではなかったと思う。

私の原点は「捕鯨問題は国内問題だ」という一言に尽きる、ということを再発見できたから。

30分もあれば読める分量だと思う。

誤字の注釈の多さにうんざりなさるだろう。

論理の飛躍も多いとお感じになるだろう。

それでも、これが私の原点だ。

2009年5月11日月曜日

抗鬱剤と睡眠剤。

前日に睡眠剤を飲まなかったため、全く疲れが抜けていない。

抗鬱剤は、簡単に言えば「元気になっちゃった」な薬である。

私が服用しているクスリは約1日半ほどその効果が残る。

そのため、睡眠剤を使用して半ば強制的に脳を停止させないと、脳が休まらない。

効果が1日持たないクスリの場合は朝夕2回服用するので、結局は同じである。

そうしないと、翌朝鬱状態のまま目覚める羽目になるからである。

基本的に投薬治療では抗鬱剤と睡眠剤はセットなのだ、と改めて実感した。

私が服用している睡眠剤は8時間ほど効果が持続するので、結局は午後10時までには帰宅していないと翌朝のコンディションが整わない。

今後はそれを肝に銘じて活動する。

2009年5月10日日曜日

ご成約。

バリトンサックスを購入した。

Yanagisawa B-901である。

ビッグバンドにおける低音楽器の一つであり、ロックなど幅広いジャンルで活躍する楽器。

まだまだ唇の形すら安定しない状態だが、運指は後回しにして、3ヶ月以内に安定したピッチでロングトーンを吹きこなすこと、そして明確なアタックとリリースが出せるようにして、ビート感あふれるプレイを目指したい。

2009年5月9日土曜日

同窓会評議会。

高校の同窓会団体の評議会が開催された。

卒業直後に一度行ったことがあったが、予算や決算のことはさっぱりわからず、よくわからない発言をして出席者の皆様にご迷惑をお掛けしたことを覚えている。

今回は態度を決めて参加したので、発言こそしたものの場を乱すようなことは無かったと思う。

私はまだ卒業して10年にも満たない、在校生に最も近い同窓生の一人である、という態度だった。

同窓会は、今や任意団体である。

卒業時には加入するかどうかの選択は自由であり、卒業すれば当然入るものではなくなった。

卒業生に「魅力的だな」と思ってもらえるような同窓会であるべきだと思う。

同窓生の講演会など、在校生も呼ぶイベントが多くなってきた。

それは、講演の内容から運営まで含めて、在校生に同窓会の実態の一部を見せることに他ならない。

確かに、同窓会は第一には同窓生のための組織であって、直接には在校生のための組織ではない。

しかし、在校生が素敵な諸先輩と直接お話しできたり、あるいはそういった諸先輩と同じ同窓会の会員となることに誇りを持ってもらえるような、そんな同窓会にしていくことは、同窓会の魅力を高めることの一つの方策だと思っている。

在校生は、未来の同窓生なのだから。

2009年5月7日木曜日

捕鯨問題特集。

Webページ「すなおなおと」に、捕鯨問題特集を掲載することにした。

理由は多々あるが、最大の理由は以下の点だ。

今回は、かなりストレートに自分の感情を表現することにする。

捕鯨賛成派は、捕鯨反対派と同じくらい感情的で、議論が成立しない。

どちらも科学を自分たちの都合のよいように利用している点でも同じだし、自分たちの主張をまわりへ広めようとしていることも同じだ。

そしてどちらも、相手がなぜ自分と異なる意見を持っているのか理解しようとしていない。

それでは相互理解など進むはずもない。

確かに、かつては捕鯨反対派の方がその傾向が強かっただろう。

しかし、今や捕鯨賛成派も同類だ。

捕鯨反対派の方々には、太地浦や和田浦など、捕鯨が地域文化に根差している場所を見に来ていただきたい。

捕鯨賛成派の方々には、反捕鯨運動がなぜ「クジラが救えずして、地球が救えるか」というシュプレヒコールを上げたのかを知ろうとしていただきたい。

それもせずに賛成だの反対だの言うのは、独りよがりの自己主張としか思えない。

2009年5月5日火曜日

運命の出会い。

素敵な方と出会えた。

キーボードを持っていた私は、雨が強まったことで愚痴をこぼした。

その途端、その方は歩道ではなくお店の中を抜けるルートを提案してくださった。

私がわざわざルートを変えていただいたことにお礼を述べると、その方は仰った。

人が大切にしているものは、大切なものだから。

この感動は、生涯忘れない。

2009年5月4日月曜日

東京のフルート吹き。

高校時代の同期生の自宅にお邪魔させていただいた。

この友人は高校時代プログレッシブロックに傾倒していたので、私はてっきり今でもそうなのだと思っていたが、とんでもない間違いだった。

純朴に音楽と向き合い、フルートとリコーダーの超絶技巧を駆使して様々な曲を演奏する技術には脱帽するばかり。

その音楽が生まれた時代背景など、様々なことを教えてくれた。

もし私が音楽家になっていたら、この人のようになりたかったと思う。

2009年5月3日日曜日

同窓生と現役生。

本日、高校時代の先輩が企画した焼き肉パーティーに参加。

同窓生総勢10名弱が集まった。

企画者の先輩は現在高校生の現役の参加も歓迎していたように思うが、結果的には現れなかった。

高校を卒業してもう10年ほど経つ。

卒業直後の後輩同窓生や、まして現役の高校生とは明らかに年齢の違う世代に入った。

私がこれまでに経験した就職活動、営業、パニック障害に伴う休職命令などは高校生にとっては未体験ゾーンだろうし、逆に私も平成の世に産まれた高校生たちがどんな思いでこれまで育ってきたのかが正直なところわからない。

そもそも、高校生の頃の記憶がもはや曖昧だ。

もう自分は高校生の視点に寄り添うことは難しい気がする。

何せ、自分の周囲には高校教諭になった人までいるのだ。

高校生からすれば、私が学校にいたら「先生」と思われても仕方がない歳になった。

同窓生同士なら話せることでも、現役の高校生の前では口に出せない、あるは出しても仕方がない話題も増えてきた。

名実ともに「同窓生」になってきているんだな、と実感する。

少し嬉しく。

少し寂しく。

2009年5月2日土曜日

ゴールデンウィークについて。

今年も大型連休が始まってしまった。

日本は他国と比べて祝日が多いという。

しかし、それは「国公認でないと休めない」という日本人気質の裏返しでもあるように思う。

祝日なんて最小限にして有給、というよりヴァカンスが気軽にとれるシステムにすれば、祝日に観光客で芋を洗うような事態になることは避けられる、と直感的に思っている。

それが証拠に「家族サービス」の名のもとに、結局働いている方はゴールデンウィークも休めない。

もともと祝祭日と無関係な自営業などの方も、取引先が「休日だから」と休んでしまうので仕事が狂う。

観光業などに従事する方も、一般人が祝日にならないと旅行しないとなれば閑散期と繁忙期の差が激しくなり、ゴールデンウィークだけに特別イヴェントを組むようなことをしなければならなくなる。

これは誰にとっても不幸なように思うのだ。

さて、そんなゴールデンウィークを上手に乗り切る3箇条を考えた。

  1. 遠出するときは混雑を極力避ける
  2. 前述のとおり、この時期は遠出しようと考えている人で溢れかえっている。

    新幹線自由席と高速道路の使用は絶対に避けるべきだ。

    万一移動する場合は予約制の指定席などの使用を考えるべきだろう。

    高速バスは高速道路を使用するため基本的に当てにできない。

    高速道路で移動する場合、運転手の交替が望めないなら運転手は拒否すべきだ。

    特に帰りの渋滞で、仕事以上に疲れること間違いない。

  3. 近所の穴場を発掘する
  4. 遠出しないとなると、近所でさほど混んでいない場所を探すのがよいだろう。

    大きめの公園へ出かける、興味のある講演会や演奏会へ出かける、図書館へ出かける、前から気になっていた近所のお店へ行くなど、意外と近所の穴場は多い。

    特にお勧めしたいのが、都市部を散歩しながらの散策。

    普段と比べて業務用トラックなどが少ないため、空気が比較的綺麗になるからだ。

  5. 普段はあまり会えない友人と会う
  6. 相手が既に旅行を計画している場合は諦めるほかないが、通常の土日などでは会いにくい友人と会って話を弾ませるのが最も楽しいと思う。

今年の私はあまり会えない友人とのんびり話をしたり、図書館へCDを物色しにいくのを基本としている。