先日述べた親友から聞いた話だが、愛という言葉は明治になってできた言葉だという。
本当かと思って少し調べてみたが、正確には「明治に入って愛という言葉に新たな意味が与えられた」ようである。
古くは、愛とは主として思いやりのことであったようだ。
万葉集時代からその言葉は見られる。
特に、男女間においてそれを「恋」と呼んだようだ。
また、転じて好むことや大切にすることも愛と呼んだようである。
「愛でる」や「愛しい」という言葉にその意味が現れているように思う。
なお仏教では、愛とは愛欲もしくはそれに溺れることであり、どちらかというと人間の迷いのひとつであり、解脱を妨げる否定的な単語であったようだ。
さて、肝心の明治に入ってからの意味だが、これはキリスト教のアガペーに対する訳語であるという。
つまり「神がヒトに対して注ぐ、自己犠牲的で一方的な恩寵」というキリスト教の思想に対して愛という言葉があてられたというのだ。
先程の親友によれば「愛は見返りを求める」ものなのだという。
神はヒトではないので、自己犠牲的でも一方的でも恩寵を与え続けることができるかも知れない。
しかしヒトはそうはいかない。
そんなことしていたら自分の身が持たない。
だから、ヒトは見返りを期待することで、そして実際に見返りを得ることで、どうにかこの意味での「愛」を実現しようとするのではないだろうか。
その意味で、親友の言葉は逆説的に正しいのかも知れない。
かつては私も、アガペーとしての愛を持った人間を目指そうとして失敗したことがあった。
一方的博愛を目指して、失敗したことがあった。
その経験を踏まえて、世俗的で昔から使われていた、思いやりとしての愛を持った人間でありたいと思う。
そしてその思いやりが特定の相手に向けられるとき、それが「恋」なのだろう。
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